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2017年9月

2017年9月29日 (金)

ドビュッシーの習作

次の室内楽の発表会はたぶん2020年。
何人かの生徒さんがやっていた「自分以外は全員プロ」のチームで参加すれば、自分のやりたい曲を持ち込みでできるんだよなー。
生徒同士で組むのも勉強になるけれど(至らない同士であぶりだされる問題点の貴重なことといったら)、ちょっと背伸びした曲を気持ちよく演奏する喜びも捨てがたい。
やりたいことはやっておかねば。もう若くないのでござる。
「自分の腕ではかなり無理があるが、死ぬまでにやっておきたい曲がある」という人は多いでしょう。ボロボロでもいいから1度お手合わせ願って「思い残すことはない」と笑って死ぬんだよねきっと。
私の「無理だが死ぬ前になんとか」はラヴェルのピアノ三重奏曲。ラヴェルの晩年の傑作で、遺言とまで言われているくらい内容の濃い作品。表面をなぞるだけで精一杯だろうけれど(いやそれすらもどうだか)、本当に一度でいいからやってみたいな。

それはさておき、フォーレ&ドビュッシー&ラヴェルのピアノ三重奏曲がセットでCDになっていることが多いんですよ。
3人ともピアノ三重奏曲は1曲ずつしか書いていないのと、音楽史的にも3人並べるとおさまりがいいのとで、そうなるんですよね。ちょうどCD1枚の長さだし。
なので、ラヴェルを聴くならついでに、と3曲続けて聴いてしまうんですが、この3曲の中でドビュッシーのだけが見劣りするなあといつも思っていました。
フォーレは他の2人より時代が少しだけ古いので、さほどとんがったことをしていないのは当然なのですが、ロマン派にしては近代の風を感じるところもあり、もっと古い「ザ・ロマン派」とは一線を画す響き。それに、ラヴェルのそれと同様に亡くなるすぐ前の作品だけあって、持てるものを出し尽くしたのであろう完成度の高さです。
しかしドビュッシーのは…うーむ。それに、出来がどうこう以前に、どこがドビュッシー?と首をひねるくらいにドビュッシーらしい要素がほとんど入っていないのも謎だ。
ここにきてようやく調べました。ドビュッシーのピアノ三重奏曲なんて最近まで存在することすら知らなかったのですが、なんとなんと作曲を勉強し始める前、17歳のときの作品だったんですって!そりゃレベルが違いすぎるってもんですわ。
書かれてから百年たって原稿が出てきたんだそうです。本当に習作レベルなんですね。

とはいえ美しいメロディーはあちこちに散りばめられていて、ロマン派の曲だと思えばそう悪くないぞ。時代的にはロマン派が終わりかけの頃だから、先輩たちの作品を参考に作ってみたわけで、素人少年がよくぞここまでという気になってくる。
ラヴェルやフォーレの三重奏曲に比べると、ピアノがさほど難しいことをしていないので、もしかしたらこれならそんなに無理せずとも弾けるかも…。
折しも、行きつけの楽譜専門古書店で、この曲のとても状態のよい楽譜が見つかり、それなのに驚きの低価格だったので「思わず!」。
(まったく同じ楽譜が新品なら6,200円もします。室内楽の楽譜は輸入品ばっかりで本当に高いのです…。古本とはいえ、書き込みも折れ曲がりもないのに1,500円とは何かの間違いだろうか)

さっそく楽譜を見ながらCDを聴きました。おお、これはいけそう。
そして、何ヶ所か、ピアノ曲によくみられるドビュッシーらしいクセのようなものを見つけました。後の片鱗はあったんですなあ…するっと聴いていただけではわからなかった。
そして、楽譜を見ながら何度か聴いて演奏のイメージを作っているうちに、ちょっと好きになってきました。正確には、ツボに入るポイントをいくつか見つけて、それが回を重ねるごとに少~しずつ増えていくの。
《嫌いではないがどうでもいい曲》だったのが、「とてもツボ!」な箇所がちょこちょこあるおかげで、気になる曲に昇格したわけです。
技術的な難所はないので、弦と合わせる勉強さえ積めばできると思います。
2020年に間に合うかはわかりませんが、遅くともその次の室内楽発表会までにはなんとかしたいですね。

2017年9月14日 (木)

強弱で表現すること

ピアノの発表会から10日ほどが経ち、次のことに向かっているここらあたりで、ちょっとふりかえっておきましょう。

チェンバロでは、楽譜を見て「ここはおいしい箇所だ」と判断したらテンポを少し遅くして(ためて)華麗な装飾など入れたりもして協調するのですが、ピアノでは必ずしもそれが吉と出ないことが多いなあと思う今日この頃です。
ロマン派のたっぷりした曲なら、《ため》がベタすぎるくらいでちょうどいいこともあります。ショパンの短調のバラードなどなど。
ですが、私が今回のピアノ発表会に選んだ曲はクール・ビューティーの王様ともいえるラヴェル。
美しいメロディーだもの、たっぷり歌いたいわぁと思う心をぐっと抑えて、あえてメトロノームのようにテンポを保たないと、かえってごてごてとした悪趣味に陥る。ダサいともいう。
1曲をこんなにみっちり掘り下げたのは初めてですが、掘れば掘るほどに魅惑のラヴェルが私をとらえて離さない。よくセットで語られるドビュッシーの音楽は、割とストレートに甘いところは甘いのですが、ラヴェルはいつでもぶれずにツンデレなんだなーと最近思うようになりました。
甘いハーモニーをつけていても、メトロノーム的にツンツン演奏するのがはまるラヴェル・スタイル。
今回の曲で言うと、甘く歌いたい箇所でも、振り向きもせずハイヒールで颯爽と通り過ぎ、ラストにラヴェル本人の筆で「ここからテンポを落とせ」と指示が出てくるまでは厳格なまでにテンポは揺らさない。それでラストの気だるい余韻が生きるのよねー。

あと、テンポを揺らすと簡単に劇的になるのでついつい安直にやってしまいがちですが、テンポそのままで音量の上げ下げでドラマチックさを演出する方がベタさ・ダサさが抑えられることがわかってきました。
他の人はどうかわかりませんが、私の場合はテンポを揺らして「ほらここ歌ってますよ~」と表現する方がラクで、かなり意識しないと劇的なまでに強弱を使い分けることはできませんでした。
メトロノームを本当に鳴らしながら、強弱だけでデレを表現する練習をレッスンでしてみたところ、私にはフォルテの総量が少なすぎることが発覚!楽譜にmfと書いてあったらあまり強くしちゃいけないな、ととらわれすぎる傾向にあったわけです。
強弱なんて相対的なものなんだから、曲想によってはmfの指示があってもfとかffを出しても良いし、その前の部分の強さで調節すればいいんだ…目からうろこがバッサバサ。
例えば、サビの部分がpから始まって最高潮に盛り上がったところにfと書いてあったとする。その場合のpからfまでの幅が狭いと指摘されました。もっと幅広く!
だから、fは私が想定しているより強いものだったんですねえ…自分では強弱をつけているつもりでも、客観的にはあまり差が感じられないそうです。そう言われてそこに注目して聴きながら弾くと、確かにその通り。
たぶんほら、子供心にご近所に遠慮もあってこんなもんでいいかなというのでしみついてしまったのかもしれぬ…。

そういえば。上級者の練習を聴いて、その激しさに「あそこまで到達するのは無理っぽい」と思った10代の記憶がよみがえりました。
あの頃、指が速く動くとか、長距離の跳躍を外さない正確さとかよりも、強弱のダイナミックレンジに圧倒された率が高かったんですわ。指を速く動かすのは練習次第でなんとかなりそうというか、習い続けていれば誰でも自動的にあのくらいできるようになるんでしょう?と、たいして気にとめていなかったっけなあ。
当時から、指のテクニックではない表現力が自分にはないと感じていたのかもしれないなあ。

やたら音が大きく響くスタインウェイのピアノで本番を弾いて「おおう!」となりながらいろいろと勉強になったので、次に活かしたいところです。
強弱問題はピアノならではの課題の一つですな。
さて、チェンバロもがんばろう。

2017年9月 4日 (月)

幼少時のレッスンの記憶

発表会後の懇親会で、大人のヴァイオリンの生徒さんたちの中に子供の頃ピアノを習ったことがある人が結構いらっしゃることがわかったのですが、全員が「早々にリタイアしてしまった。退屈できつい課題をビシビシやらせる先生だったから」という衝撃的な告白。いや、よく聞くパターンだったか…。
楽譜がさらっと読める状態にも至らずに、この教室に入ってから音楽好きになっていったのでした。

退屈で子供にはつらい教材でも避けては通れない道だとは思うのですが、鬼のようにしごかなくても、やらせ方はいろいろあるでしょうね。
別にうまくならなくてもいいもん!という気持ちが巣食ってしまったら終わりでしょう。
私はのほほんとした子供だったので練習に負の感情を抱きにくく、どんな教材でもなんの疑問も感想も抱かずに、毎日決めた時間だけきっちり機械的に練習して「今日のノルマ終了~♪やったぜ(達成感!)」という感じでした。
練習は好きでも嫌いでもなかったというのが正直なところです。
少なくとも「嫌いではなかった」から続いたのだなあと感慨深いですが、最初の先生がスパルタ指導タイプではなかったのが大きかったと今になって気づきました。当時は比較の対象がなかったのでどんな先生かと問われても「こわい先生ではない」くらいしか言いようがありませんでしたが、今ふりかえると「カリキュラムはしっかり/指導は優しく」だったと思います。
今の先生につくときに、教室主宰のヴァイオリンの先生と3人で面談をしまして、どんなレッスンを受けてきたかを説明したところ、「小さい子にも手を抜かずにフルコースのメニューで教えておられたんですねえ」と称賛されました(私が賞賛されたわけではないが、なんだか嬉しい)。
なんとなく好きな曲を楽しく弾けるようになったらいいなという感じで子供に習わせる親は多いと思うのだけど(特に親に楽器経験がない場合)、そういうことなら教材はそんなにいろいろいらないんですよね。ただそれだと応用がきかなくなるので、早いうちに基礎は叩き込んだほうが後々ラク…。叩き込むという語感が幼児いじめみたいでアレなのかな。そこは先生の腕ですよね。
昨今は、教材を作る作曲家の先生がたも現代の感覚で工夫をこらした良い教材を生み出していて、今の子供たちがうらやましいです。

あの頃があって今があるということをつくづく感じた一日だったというお話でした。
子供の頃にピアノに挫折した皆さんはもうピアノに戻る気はないそうですが(ヴァイオリンに打ち込んでいるからいいんだよね)、ピアノ未経験の方は「やってみたい気持ちはすごくあるが両方できるか迷っている」とおっしゃるので、ピアノ科の先生生徒で強力プッシュしまくりました。
今からだったらトラウマになるようなレッスンはないですし、きっと楽しいですよ~。

2017年9月 3日 (日)

ピアノと室内楽の発表会

ピアノと室内楽の発表会、つつがなく終了しました。
席が少ないので子供の部を聴くのは遠慮しましたが、大人の部になると一転して会場全体がまったりした空気になるのだと先生がおっしゃっていました。

会場にあるのはスタインウェイのグランドピアノで、ピアノの生徒は開演前に1人10分ずつ、さわる時間が設けられていました。
要するにリハーサルなんですけど、リハってその会場で楽器がどのように響くのかを確認して、音の出し方をどうコントロールするか考えるためにあるのです。
鍵盤楽器の場合はそれプラス、会場にある楽器のクセを把握するのも重要なリハ作業。
指鳴らしの練習をする時間だよねくらいに思っていた私は、初めてのチェンバロの発表会のときにリハの本当の意味を知って大いにあたふたしたものでした。
自分の楽器を持ち歩く奏者(フルート、ヴァイオリン等々)でも同じことで、音響を確認するのがリハなんですね。
さてこのピアノ、フルコンではないからそこまで大きく響かないだろうと思ってフォルテシモを弾いたら、とんでもなく大きな音が出てひっくり返りました。
中ホールならちょうどいいと思うんですけど…ピアノの先生も部屋の天井がもっと高ければとおっしゃっていました。スポーツカーで一般道を走るようなものというか。
でも、同様にピアニシモも想定より大きく響くので、強弱の対比はいつもどおりといえる。なのであまり気にしすぎないでいこうということになりました。
タッチは特に繊細すぎることもなく、いつもどおりで大丈夫でした。タッチについては、欧州三大ピアノの中でスタインウェイだけは比較的「誰が弾いてもさほどヘタにならない」そうで、素人が絶望的にならずにすむ優しいピアノらしいですよ。ある程度はごまかしてくれるという感じ、わかる気がします。
一方、絶対にごまかせないがうまい人が弾いたらより素晴らしい音楽になるのがベーゼンドルファーやベヒシュタインで、こわいけれどそっちも体験してみたいです。家のピアノはベヒシュタインのアップライトで、タッチの繊細さに驚き、それで練習する喜びを知ってしまった今はランクを落とせない体になってしまったけれど、グランドのそれはその比ではないそうで、一度地獄に叩き落されるのもいいかもよなんて思っています。

いや、そんなことよりもペダルが違いすぎて対処できるのか?
スタインウェイのペダルは踏みしろ(?)が浅いですよーと予告されていたので、ある程度覚悟して踏んだのですが、思った以上に浅かった。
教室のピアノ、家のピアノ、もう一人のピアノ科のかたの家のピアノ、どれも結構うんしょ!と深く踏むんですよ。ちょっと踏んだらばっちり利いてしまうなんて…。
しかもグランドなのでハーフペダルの機能あり。
それから、アップライトのペダルと違って、細かく細かく何段階にもペダルの強さが微調整できるそうなので、本番で試してみようと思っていまして、そっちは意外に冷静にできたなと思います。
すごいマシンを運転する満足感のようなものはばっちり得られました。

大人の部のプログラムは、先生が伴奏をつけてのヴァイオリン二重奏からスタートしました。習い始めたばかりの人からベテランさんまで10人が出演。
休憩の後、無伴奏2人、ピアノ2人、生徒同士の室内楽、と続きます。バッハ→テレマンときて3番目の私が時代をめいっぱいすっとばしてラヴェル(私の次のピアノさんもサティだったからピアノ組だけなら統一感があったといえよう)。
自宅練習ではもうミスタッチはない仕上がりだったけれど、えっそこで?という箇所でパッとわけがわからなくなって一瞬止まってしまいました。そこでパニックになるほどウブではなく、すぐに気を取り直してあとはかえって冷静になり、割と最近まで時々ひっかかっていた箇所をあぶなげなく乗り切り、着地はまあまあだったな…音色などは、現時点でできる限りイメージ通りにできたので、88点くらいつけていいな。あくまでも「現時点の実力の範囲で」だからね、くれぐれも。大好きな曲なので、これからも磨いていって死ぬまで理想に近づけていこうと思っています。
生徒同士の室内楽の最後が私の参加したピアノ三重奏で、こちらは音を見失っても止めずにどんどんいくしかない。途中3か所くらい、音を忘れちまったのですが、探している時間はないので間違った音を出すよりは何も弾かない方がマシと判断してとばしました。ベース音である左手だけは死守。若干、音が減ってしまったけれどそういうもんだと思わせるべく、ポーカーフェイスで華麗にスルーだぜ。
どう見えていたのかなと思っていたら、友人たちが「とにかく楽しそうにやっていた。選曲も素敵」と教えてくれたので、客観的にそうだったのなら何よりだわとホッとしています。
他にメンバーがいるため独奏に比べるとちょっとしかあがらないのですが(吹奏楽に至っては大人数なのでまったくあがらなかった。バカなのか)、いろいろと注意点をチェックしておいたのにケロリと忘れて楽しくやっちゃったわ。そら楽しそうに見えるはずだわ。よい方向の緊張感は保つようにしないと。

この後は休憩をはさんで生徒1人+プロ数人という編成での室内楽のコーナー。
組分けやレッスン時間の調整が必要ないのでこの形態が一番作り易い。私も生徒同士にこだわらなければピアノ五重奏とかもできるんだなあ(しかし私の精進次第である)。
室内楽の選曲では圧倒的にモーツァルトが多く、次いでテレマンだった印象。没後250年の記念年であるテレマンはともかく、モツは強いですな。まあモツでもヴァイオリン曲ならあまり文句もありません(笑)。朗らかさと疾走感が相まって、気持よく聴きました。
なにかの呪いを解くためにも、一度発表会でモツのピアノ曲を演奏しなくてはならんな。先日の日記にちょっと書いたあの候補曲を。

ピアノ科の大人は私の他にもう一人いらっしゃって、ヴァイオリンを習いに通っているうちにピアノもやってみようと思うようになって二刀流になったそうです。だから、もう1曲はヴァイオリンで室内楽を演奏しました。
この教室では、ピアノの先生がソルフェージュのレッスンも単発で行っていて(毎週とか毎月とかではなく、ときどき予約して受けることができる)、実技ではなく理論的なことを歌ったりしながら体に覚えさせていくような内容でして、ピアノをやっていれば自然と身につく和声感覚(指の間隔の感覚などでいつのまにか体得してしまう)がヴァイオリンの人にはなかなか難しいので、時間に余裕があればソルフェージュのレッスンもお薦めされているのです。
ピアノは調律されているから音痴でも音は外れないけれど、ヴァイオリンは自分で音程を作らないといけないので、長2度とか短2度とかがあいまいだと厳しいんですよね。
合奏するにしても他のパートと協力しあって和音を作るので、常に一人で和音を作って耳になじんでいるピアノの人には当たり前の和声感覚がやはり育ちにくい。
なので、ソルフェージュだけでなくピアノも習えばもっとヴァイオリンがうまくなるというわけですよ。
逆に私もヴァイオリンを習えばピアノに良い影響があるだろうと確信しているのですが、熟考の末、余力は通奏低音に使うと決めました…(80歳で元気だったら考えなおすかも)。

2017年9月 2日 (土)

一人ではできないこと

私が通っているヴァイオリン教室の特徴の最たるものは、小さな子にもアンサンブルの経験を積ませるということだと思います。
子供同士でのカルテットだけではなく、大人数の合奏では大人も子供も一緒になります。大人の隣に小1が座ったり、初心者の大人の隣にバリバリ弾ける子供が座ったり。
縦のヒエラルキーなどなく、皆で一つの音楽を聴き合って作り上げるところが素晴らしい。

先日、TVで高校の吹奏楽部が演奏しているところを見ていて、自然と自分の高校の吹奏楽部を思い出したのですが、部ができた経緯まで記憶がよみがえってきたところでちょっと感動してしまいました。
私が入学したとき、部ができて3年目かそこらだったんです。
各パート最低限の人数が揃ったのが私の入学した前年だったらしい。中学でやっていた人はちらほらで、初心者が多いという、ドカベンの最初の頃みたいな感じですな。
練習の合間に、部を作った先輩の話をぼちぼち聞きましたが、その時は先輩のおかげで楽しい部活に出会えたという感謝の念はわいたけれど、その先輩がたの思いは想像できませんでした。
吹奏楽を初めてやってみた感想は、「一人で吹いてもまったくおもしろくない!」「その分、全体練習で皆の音が合わさったときの肌が粟立つ感動は、想像をはるかに超えた!」がセットでした。でも自分の基本的な感覚は「ピアノ1台でたいていのことはできちゃうので不便はない」というものだったので、ハーモニーを奏でたい管楽器奏者の気持ちに思い至ることはなかったのです。
ですが、今、アンサンブルに参加してみて、旋律楽器ならではの「一人ではできないことを皆と一緒にする」発想がなんとなくわかった気がしています。

部ができたきっかけは、一人のフルート少女だったのだそうです。
入学した高校に吹奏楽部がなく(オーケストラ部は尚更ない)、同じように合奏をしたい仲間を見つけて3人だか4人だかで先生に談判したんですって。
今はこれしかいないけれど、部さえ作っておけば入部する子がでてくるでしょうし、当面はフルート二重奏とか木管アンサンブルとかを練習していればいいからと。
上手な子たちなので工夫していろいろやっていたそうです。
でも3年かそこらでコンクール出場できるまでに部員が増え、演奏もなんとなく形になるとは、設立メンバーのどなたも思わなかったのではないか。顧問の先生もちょっと驚いていたようでした。
当時は、あの先輩がたは(顔も知らないが)きっとここに入って大人数で演奏したかっただろうなあと思っていましたが、今考えると、数人で好きな曲を仲間と楽しく演奏しただけでもかなり楽しい青春だったのじゃないかな…。

数年前に、もしもヴァイオリンが弾けたとしたら、やっぱりオケに入るか、最低限もう一人いないと無伴奏曲はとっても少ないからなあと思い至りました。
人生で最初に手にする楽器が、複数で演奏する前提の楽器だったら、思考回路も違ってくるはずだな、とも。
さらに一歩踏み出してヴァイオリンを習う人々の中に入ってからは、少しは他人事ではなく考えられるようになったと思います。
それはそうと、そもそも一人でも完結するピアノをアンサンブル楽器でもあるととらえるきっかけになったのは、やはりチェンバロでの通奏低音の存在でした。
チェンバロを習っていなかったら、自分が弦楽器と一緒にピアノを弾くなど一生涯思いつかなかったはずです。

ヴァイオリンの先生は「オケもカルテットもできる万能楽器♪生まれ変わってもヴァイオリンをやる!」とおっしゃっていましたが、鍵盤弾きは鍵盤楽器が万能だと思っていますからおもしろいものです。
ここに歌手が加わったら「声こそ万能!」と宣言することでしょう。
万能な楽器は自分がやっている楽器であるという点だけが正解ですよね。
まあ、「ピアノではこういうことができないが、弦楽器はそれが得意でいいなあ」みたいな得手不得手はどの楽器にもお互いにあるので、実は万能ではないとわかっているんですけれども。
補い合って仲良くやるのは美しき哉。

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